藤子不二雄A(安孫子素雄)の死因や病名は老衰?若い頃は会社員との兼業!

人物

2022年4月7日に藤子不二雄A(安孫子素雄)先生がお亡くなりになられました。

藤子不二雄A(安孫子素雄)先生は、「オバケのQ太郎」「忍者ハットリくん」「怪物くん」など日本人で見たことがない人なんていないくらい有名な作品を世に出してこられた方です。

今回の報道は本当に悲しい知らせになってしまいましたね。

今回は「藤子不二雄A(安孫子素雄)の死因や病名は老衰?若い頃は会社員との兼業!」と題して以下についてまとめています。

・藤子不二雄A(安孫子素雄)の死因や病名は老衰?
・藤子不二雄A(安孫子素雄)の若い頃は会社員との兼業!

藤子不二雄A(安孫子素雄)の死因や病名は老衰?

藤子不二雄A(安孫子素雄)の死因や病名は老衰?

結論からお伝えすると、藤子不二雄A(安孫子素雄)先生の死因については明らかになっていません。

現在警察で藤子不二雄A(安孫子素雄)先生が亡くなられた経緯や死因について調査をしているとのことですね。

 

 

藤子不二雄A(安孫子素雄)先生は、川崎市内にある自宅で亡くなられたそうで、今年で88歳でした。

警察によると自宅の敷地内で藤子不二雄A(安孫子素雄)先生が倒れていて、その場で死亡が確認されたということですね。

捜査の関係者によると、目立った外傷などないということから何かのトラブルに巻き込まれたなどではなさそうです。

 

 

藤子不二雄A(安孫子素雄)先生が住んでいらした近所の方は、数ヶ月前に先生の元気な姿を見ていたのだそうですね。

川崎市にある藤子さんの自宅の近所に住む人たちからは、亡くなったことへの驚きと、悼む声が聞かれました。
40代の女性は「数ヶ月前自宅でタクシーを待っているのを見ましたが、元気そうに見えました。夫が大ファンです。ニュースで亡くなったと聞き、驚いてことばが出ないです」と話していました。

 

調べると、藤子不二雄A(安孫子素雄)先生はこれまでに3度大きな病気にかかり手術されていたことが判明しました。

大腸がん

2012年に、大腸がんにかかっていることがわかりました。

体にイボ状のものができていたため医師の勧めで検査を受けたら、大腸がんだったそうですね。

 

4時間の手術で2センチ近くあるがんを取り切り、無事に手術は終了したそうです。

また当時のことを語っている記事には、かつての漫画仲間が手招きをする夢を見たと書かれていました。

容体の急変に備えて集中治療室(ICU)で過ごしている時、不思議な夢をみた。巨大なソーセージを食べるように迫ってくる外国人兵。そして、橋の架かった小川の対岸のアパートから手招きをする、亡くなったはずの漫画家仲間たち……。「橋を渡ろうとしていた。あれは、さんずの川だったかもしれない」

 

手術後は食事制限もしなければならず、春のタケノコや、秋のマツタケといった好きなものが食べれなかったことがつらかったのだそうですね。

腸閉塞(へいそく)

大腸がんの手術から半年後の2013年には、腸閉塞に書かられています。

中華料理店で食事を終えたタイミングでお腹に激痛が走ったのだそう。

 

すぐに病院に行くと腸閉塞だと判明し、流れを良くするために鼻から腸まで管を入れて滞っている消化液を吸い取る治療をされたようです。

 

退院は入院から20日後のことでした。

心臓弁膜症

腸閉塞から約1年後の2015年には、心臓弁膜症を患っています。

 

ある時息苦しさを覚えたため大学病院を受診されたそうで、

左心房と左心室の間にあり、血液の逆流を防ぐ僧帽弁の働きが悪くなっていることが発覚したそう。

藤子不二雄A(安孫子素雄)の若い頃は会社員との兼業!

藤子不二雄A(安孫子素雄)先生は、高校卒業後に伯父のコネで「富山新聞社」に入社しています。

高校卒業後は漫画の活動も続けていましたので、漫画家と新聞社での会社員との兼業だったようですね。

 

富山新聞社では、学芸部でインタビュー記事を、社会部・政治部で似顔絵を書いていたのだそう。

漫画家としての活動の方は、高校卒業後2ヶ月で仕事を辞めた藤子・F・不二雄先生が中心となって漫画を描き、藤子不二雄A先生は週末にその手伝いをするというスタイルで継続的に漫画を描き続けていたのだそうです。

 

そして1953年に、2人初めての連載作である「四万年漂流」が連載開始となりました。

ただしこの作品は数回で打ち切りになってしまった幻の作品なのだとか。

藤子不二雄A(安孫子素雄)先生は、当時尊敬していた手塚治虫先生の手塚をもじってペンネームを「足塚不二雄」としていました。

 

富山新聞社での給料はよく満足していたそうですが、社会人2年目になる頃に藤子・F・不二雄先生から東京に一緒に出ることを誘われました。

新聞記者としての仕事の楽しさも感じていたため心残りはあったものの、

母親からの承諾を得て、最終的に東京に出ることを決めたそうですね。

上京した最初の頃は、親戚の家の和室を間借りして生活をしていました。

その後、手塚治虫先生が住んでいた「トキワ荘14号室」が空く事になり、

手塚治虫先生の後に、藤子不二雄A先生と藤子・F・不二雄先生2人が入居しました。

 

そしてそこでは漫画界でも有名なトキワ荘のメンバーとともに、切磋琢磨しあい漫画を描かれていたそうですね。

まとめ

今回は「藤子不二雄A(安孫子素雄)の死因や病名は老衰?若い頃は会社員との兼業!」と題してまとめましたがいかがでしたでしょうか。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

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